子どもの障がいという概念を崩す〜それはただの愛すべき個性だ

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保育士をしていると、発達障害と呼ばれる子どもや、自閉症、アスペルガー症候群、ADHDなど、集団生活の場面では、
難しいと感じる子どもたちに出会う。

確かに、場面の切り替えが難しかったり、
急な予定変更に対応できなかったり、
数字や文字、言語の理解は遅いかもしれない。

けれど、
彼らは、とても感受性が豊かで、
そしてなにより、どんな存在よりも、
純粋、ピュアなのだ。

悪と善
という感覚や概念が存在しないから。

自分を勝手に否定したり、
卑下したりなんかしない。

自分の気持ちにいつもまっすぐで、
誰かの心と壁を作ったりなんてしない。

自分を勝手に偶像化したり、
誰かと比べたりなんかしない。

自分という存在が、
生きるだけで個性なんだと、
全身で知っているみたいだ。

本当に透明みたいな心を持ってる。

愛おしいんだ。

可愛いくて仕方がないんだ。

本当の純粋って、こういうことだよね。

って毎日のように感じる。

彼らは障がいだろうか?

障がいってそもそもなんだろうか?

集団生活で生きにくいことだろうか。

日常生活が送りにくいことだろうか。

仕事ができないということだろうか。

言語でのコミュニケーションが苦手ということだろうか。

いや、そうじゃない。

彼らの個性を認められない、
ちっぽけな私たちの心、
未熟な社会が、

障がいなのではないだろうか。

確かに大変な時はある。

日本って、
無駄な常識とかマナーとかたくさんあるから。

学校教育はみんな同じを求められるから。

その枠にはめようとすると、
そりゃはまらんくて大変になる。

枠からはみ出しちゃう。

だけど、
枠なんて必要?

教え込まないといけない教育なんて必要?

本当はみんな自分の人生を生きる、
一人ひとり違う人生を生きるために生まれたのに。

どうして同じにしなきゃならないの?

人と繋がりたい「同じ」と、
個性そのものを「同じ」にする

のは全然全く違うこと。

私たちは、
本当は一つの魂。

だけれども、
色のない黒い世界だけではつまらないから、
様々な色に振り分けられた。

だから、として輝くように、

として輝くように。

そして、たまに黄色が混じって、
になることを喜びあったり。

そうやって作られたのに。

青学校に行くと、青色になることを強いられる。

赤学校に行くと、赤色になることを強いられる。

違うよね。
違う。

として輝くからこそ、
として輝ける。

黄色があるから、
黄緑があり、
があるから、
がある。

みんな元々一つ。

そして、その個性を存分に輝かせて生きるために生まれたんだ。

だったら、障がい
なんてものすら、

また概念だったのだと。

社会のシステムに作られた概念だったのだと、
私は思うのだ。

にする教育は、
もうすぐ終わりを告げる。

世の中は、
真っ赤として、
輝かせるための教育、
システムを、
求めている。

人間本来の生き方を、
意味を思い出しつつある。

障がい者と呼ばれる彼らは、
障がいではなく、

人間本来の生き方を、
全うしているだけなのだ。

障がいというものすら概念で、
そんなものは、
自分の心や、
社会の器が大きくなれば、

ただ愛すべき個性になるのだ。

私はそう思う。


2015-07-28 | Posted in 概念破壊No Comments » 

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